思考と言葉〜意味とは何か〜


取るに足らないお話です。

 

 

最近は自分のインナーワールドに閉じこもっている。

多方面から様々なお話を聞いてみたいと思っていた矢先、なぜだか一変してこのような生活を送るようになった。

こうやってブログという形で思考を言葉に変換することは久々に感じる。

 

ときに言葉として発するときに戸惑うことがある。

人間関係を円滑に進めることを是とする現代社会で、言葉というものは思考からひどくねじ曲げられたものになったりするものだ。

有り体に言えば、本心を伝えにくいときがあるのだ。

人それぞれ理由はあるだろうが、俺の場合、他者に不快感を与えたくないのだ。

この考えはつまらないものではないだろうか、この感情は他者にとって何のメリットにもならない情報ではないだろうかなど、考えれば考えるほど一挙手一投足が禁反言となっていく。

そんなことを考えていて、俺は一人で思考という妄想の世界へ身を置いてみた。

 

妄想を膨らましたところで何かが変わったわけではない。

ただ一つ気分が良かったのは、昔の自分に戻れたような気がしたことだ。

つまりかつての自分に立ち返り、人生をもう一度再構築しているような気分になる。

取り留めのないことしか考えてないから何一つ実用的なことはないのだけれど・・・

物書きでも目指せば良かったかもしれない。

あれこれこねくり回した思考実験も形に出来ればよかった。

俺はインプットばかりしていて、咀嚼して、その後のアウトプットをせずに飲み込んでばかりいた。

幸い、それが形としてただ一つ残っているものが歌詞だ。

歌詞は自分の妄想と観念の塊だ。

物語と比べて抽象的なものだが、良かったって胸を張って言える。

ここまで読んでくれている人へ、今一度自分の歌詞も届けと願ってやまない。

 

最後に、本日は「思考と言葉」についてテーマとしているのでそれに関連した「妄想」を披露したい。

すなわち、「意味とは何か」である。

「意味」とは「言葉の示す内容」として使われることが多い一方で、「人生の意味」のように価値・目的のようにも使われる。

そして辞書的には「表現によって暗示的にほのめかさる味わい」とも示されている。

「意味」をニヒリズム的に捉えるのであれば、その答えなど存在しない。

(そう捉えなければ意味は神から与えられるという宗教的な目的となってしまう。それ以外の立場があれば是非ご教示頂きたい。)

そうすると「意味」というものは全て個々人により付されなければいけない事象である。

ここで「表現によって暗示的にほのめかされる味わい」というワードを考えた場合、「暗示的」「ほのめかされる」といったその根源は全て「思考」にあると考えられる。

一方で「表現」は「言葉」であり「文章」や「音楽」でもある。

そして「人生」も一つの表現と言えるのではないか。

「意味」とは全て思考の片隅からほのめかされ、与えられる出来事なのだ。

思考の片隅からといえば、プラトンが唱えたイデア論が近いものになるのかもしれない。

しかし先のニヒリズム的立場から言えば今時イデア論を受け入れるのは非合理的だ。

ともなれば、全ての意味の解はこの思考の中にあると考えるのが筋ではないか。

全ての意味はこの思考から与えられるものとも言える。

・・・これ以上書くと長くなるので結論へ。

これらを可愛く砕いてみれば、この世は全て妄想によって支配されるものだったりするのかな。

 

なーんて考えたりしている毎日。